1.不毛な思い

 僕の隣りにはいつも(さな)が居た。
 彼女が居るのが、当たり前になっていた。
 だから僕は、思い上がっていたのかもしれない。
 彼女も僕のことを好きなはずだ、と。

 僕には眞の考えていることの8割方も分からなかった。
 眞の言い出すことはいつだって突拍子もなく、刹那的なことばかりだったから。
 それでも眞は僕に頼ることを嫌がった。いつだって、彼女は僕を蚊帳の外に追い遣ろうとする。人に甘えるのが嫌いらしい。僕に何か頼み事をするときは、いつだって命令口調。そのくせ、本当に人の力が必要な時にはすぐこれだ。
「もういいの。うん、もう大丈夫だから。裄は何も心配しないで。知ってるでしょ? わたしは強いんだから」
 小学生になったばかりの
七日(ななか)に、腕相撲で負けてばっかりの君がかい?
 そんな皮肉が口から出かかったものの、結局僕は彼女に何も言い返せなかった。
 七日に言わせれば、「
(ゆき)くんが情けないから、ママが一人で頑張らなくちゃなんないんじゃない。だって裄くんが頼れる人なら、ママも自ずと甘えがでてくるはずでしょ」だそうで。
 従兄弟の七日は、誰に似たのか――おそらく眞だろうけれど――口が悪い。年の割に大人びて……というよりは完全に老けている。冷めている、といったほうが正しいかもしれない。
 七日は眞の娘だ。でも、残念なことに僕の娘ではない。父親のいない七日に悲しい思いはさせないように、父としての役割を進んで引き受けているものの。七日に僕の血は流れていない。
 僕は、眞との関係を問われると、いつだって何と言えばいいのか分からなくなってしまう。会社の同期で、僕の今の宿主で、幼なじみで、中学までずっと同級生で、……同い年の叔母と甥で……。どれもしっくりこない気がする。腐れ縁、と言ってしまえばそれまでだけれど。
 僕はずっと、眞の特別な存在になりたかった。
 ほかの誰でもない、眞の――。

 昨夜のアルコールがなかなか抜けない。
 僕は眞に付き合わされ、ウイスキーの瓶を空にしてしまったのだ。会社で嫌なことがある度に、僕は彼女の晩酌につき合うはめになる。眞は酒を好きだからいい。僕はといえば、めっぽう弱い。ビールをコップ半分でもキツイ位だ。
「裄くん、お酒臭い……」
 リビングに足を踏み入れるなり、七日は顔を顰めて逃げていった。
 僕は小さなちゃぶ台の前に座る。用意された食事は、とても口にできそうにない。七日が小学校を卒業するまで彼女の父親役になる、という約束で許された居候の身。本当なら、食事の準備も何もかもするべきなのかもしれない。けれど僕は料理ができないので、それは全て眞や七日に任せっきりだ。仕方なく僕は、掃除やゴミの分別、風呂焚きなど、細々としたことを担当している。
 部屋の中央に小さなテーブル、それを挟んで高めのソファーとテレビ。この部屋にはそれだけしかない。片付けられたというよりは物が極端に少ないリビングは、眞の長年の知恵から生み出されたものだ。昔から眞は片付けることが苦手だった。金銭感覚もなく、欲しい物は我慢しない彼女は、何でもすぐに買ってしまう。そのくせ、捨てることがひどく下手な眞の部屋は、物がどんどん溜まるばかりで、減ることはない。物がたくさんあると、掃除機すら掛けなくなる。埃はどんどん溜まっていくばかり……。完全に悪循環だ。
 そんな理由もあり、眞は人を家に上げることを嫌がった。「だって散らかってるから」その言葉が謙遜でなく真実だと知った時、大抵の人は逃げ出す。たとえ下心があったとしても、その「ジャングル」に足を踏み入れるとなれば、途端に萎えてしまうのだ。
 眞の部屋の汚さを知って、それでも彼女とつき合っていけた男は、今のところ僕を除けば1人しかいない。
(とは言っても残念ながら、僕は眞に男として見て貰ったことは、唯の一度もない。お陰で24になる今も、「清いお付き合い」が続いている。……全くもって不健全だ。不毛だ。それでも眞のことを好きな僕は、どこかおかしいのかもしれない)。
 けれど眞はもう一人暮らしではない。娘の七日が友達を連れてくることもあるのだ。
 だから、彼女はリビングには必要最低限のものは置かないことにしたのだ。始めから物が無ければ、散らかす心配もない。物がないので、急な来客も掃除機をかけるだけで用が足りてしまう。
 とはいえ、眞の寝室は未だに物だらけで汚いままだ。むしろリビングに物が置けない分、パワーアップしている感すらある。お陰で眞に悪い虫が付くことはなく、僕は安心していられるのだけれど。
 僕は、開け放たれた窓の外をぼんやりと見た。青の絵の具を零したように広がる、高い空。春は一年中で最も長閑で、僕の好きな季節でもある。
「もうご飯食べちゃったけど、裄も食べる?」
 いつの間にか部屋に居たらしい眞の声に、ようやく目が覚める。
「あ、いいや。なんか二日酔いで気分悪いし」
「全く、あれくらいで情けないなぁ。営業がそんなじゃ、うちの会社の株が下がるでしょ」
 眞はそういって、僕の前に水を置いた。横にはご丁寧に、胃薬まである。なんだかんだ言いながらも、用意しておいてくれたらしい。
 僕は少し嬉しくなり、薬を一気に流し込んだ。急に気分が上向きになったのが、薬のせいでないことは明確だけれど。
「あ、そうだ
(ふき)は元気?」
 眞の口から出た言葉に、僕は肩を落とすことしかできなかった。
 眞はいつも僕に
苳子(ふきこ)のことを尋ねる。苳子というのは、僕と眞共通の幼なじみで、奇特なことに昔からずっと僕のことを好きでいてくれる女性だ。僕が眞をふっきることができないのと同じように、苳子は僕とのことを引きずっているらしい。
 学生時代にはつき合ったこともあった。けれど、今はよき友人だ。苳子の方はそう思ってはいないようだけれど。
「さあ、最近は逢ってないから。どうなんだろうね。多分元気だとは思うんだけど」
 僕は窓ガラスの向こうの世界を見たまま、嘘をついた。本当は一昨日あったばかりだったりする。しかも、未だに体の関係も続いていたりして。
 声色に震えはなかったはずだ。僕は眞に、あまりにも多くの嘘を吐きすぎている。そういうときは罪悪感を隠すため、僕は必要以上に話さないようにしている。
「そう」
 眞は自分から聞いてきたにも拘らず、興味もなさそうに身を翻した。
「裄なら知ってると思ってた」
 静まり返った台所に、眞の澄んだ声が響く。澄んだ……無垢な子供の純粋な声色。
 急に、昨晩のアルコールが蘇り、胃がむかむかしてきた。眞はたった一言で僕を絶望させることができる。それを分かっていて言っているんだろうか?
「どうして? 苳子とは職場だって違うし、もう逢う機会だって少ないのに」
 自然と語気は荒くなる。けれど僕には、そんなことに気をつかっている余裕はなかった。
「だって苳、今でも裄のこと好きなんでしょ」
「それでも、僕にとっては苳子はただの友達だ。それ以上には思えない」
「苳は絶対そうは思ってないだろうけどね」
 眞は昔から、僕と苳子を「くっつけよう」としている。僕には、眞の気持ちが分からない。
「……眞は冷たいね。僕の気持ちを知ってて、そういうことを言うんだから」
「裄の気持ち? そんなの知らない。わたしにはどうだっていいことだもの。……いけない、本題から逸れるところだった。そんなことより」
 そんなこと?
 僕の気持ちは、そのたった一言で済まされてしまうような物なのか?
 眞はカッとなった僕にはお構いなしに、言葉を続けた。
「知らないの?」
「何を?!」
「苳、結婚するんだって」
 何を言われたのか分からなかった。
 一昨日、久しぶりに苳から電話が来たの。会社の同僚のひとなんだって。わたしに知らせが来る前に、当然裄にも言ってあると思ってたんだけど……。
 淡々と続けられる眞の言葉は、僕の耳にはほとんど入らなかった。

 

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